galaxx’s diary

とあるオタクの一人語り。

余裕

 

音質の悪いイヤホンで音楽を聴くのが嫌いだ。

音の解像度が悪いと、感性の解像度まで下がりそうで怖い。同じ曲を聴いていても、それまで抱いていた感情が、指の隙間から零れ落ちていくのが怖い。そうして自分の感性というものの根底が揺らいでしまうことが怖い。

そう考えれば、今の生活はまさに「音質の悪いイヤホン」かもしれない。

やらなければいけないことに追われることに慣れてしまった。実験の予習をして、実験をして、レポートを書き終えたときにはすぐに次の実験が始まる。その繰り返し。間隙を縫うように複数科目の中間レポートを解き、講義の復習の時間が取れないままに試験期間を迎え必死で試験勉強。何かに追われることなく、自分の趣味に没頭する時間は皆無だ。何をしていても頭のどこかに溜めているタスクの存在がチラつく。

そうして何かに追われているうちに、アニメもゲームも手につかなくなった。何をするにも気力が沸かず、死んだ目で床に寝ころびTwitterの画面が勝手に流れていくのを眺める。Twitterが楽なのは、受動的に、勝手に情報が流れてくることだろう。アニメもゲームも、自分から能動的に摂取しに行く姿勢がなければ楽しめない。

何が楽しかったのかわからなくなる。あのゲームのどこが楽しかったのか、このアニメのどこを評価していたのか。自分は何が楽しくてこういう趣味をしていたのか。自分の生活の基盤になっていたものがぐらぐらになっていき、ただ課題と試験を消化するだけの奴隷となり果てる。合間を縫うように軽くソシャゲをやっても何の感情も出てこない。前までも同じような生活をしていたはずなのに、質の悪い模造品のように、そこには情動も悦楽も一切含まれない。ただ自分が今までそうしていたから、惰性のように同じことを繰り返しているだけだ。

まさしく「質の悪いイヤホン」を耳につけて生活している。「レポート書かなきゃ」「試験勉強しなきゃ」という感情が他の感情をただのノイズにしてしまう。かつて聴こえていたはずの細やかな感情はぼやけてかすんでしまい、いちばん大きな、おおざっぱな感情しか聴こえない。

余裕を奪われた人間がどんなにグロテスクになるのか、この3か月で嫌というほど分かった気がする。それまで許容できた人のノリは痛々しくて見ていられなくなり、それまで耐えられていたような少しの理不尽にも怒りが止まらなくなる。感動と喜びだった人生の原動力は、怒りと憎しみに塗り替えられる。今はこの生活に終わりが来ることを信じて、怒りと憎しみを燃やして前に進むことしかできない。

世の感動と喜びを糧に生きる人々が、どうかそのままの瞳で世界を見つめられますように。

世の怒りと憎しみを燃やして生きる人々が、どうかそのどうしようもない苦しみから解放される時が訪れますように。

そう願ってやまない。