galaxx’s diary

とあるオタクの一人語り。

怨嗟、または恨み言

 

突然だが、私は昨年東京大学理学部物理学科に内定した。来年度から正式に物理学科所属の学生となるらしい。ここまで来れたのは自分の努力の成果もあると思うが、それ以上に環境によるところが大きい。だが、全ての子どもに十分に教育が受けられる環境をとか、そんな話をしたくてこの文を書いているわけじゃない。もっと醜悪で、自己満足的な欲求の為だけに書いている。

この学科に来ると特に強く感じるのが、明らかに自分と「異なる」人種がいるということ。中高生時代、果ては小学生時代から何らかの学術的に形のある成果を残し、〆切とか、卒業要件とか、そういったものに全く感知せず、自発的に無限に勉強し、無限に知性をつけていく人間。一部の界隈ではそういった人間を「ガチプロ」と呼ぶらしい。

私は常日頃から「ガチプロが嫌い」だなんて大きなことを抜かしているが、本当のことを言えば、別にガチプロのことが心の底から嫌いではない。もちろんやばいアカハラ体質の人間もいないことはないが、人格者で、こちらの手を優しくとってくれる人間も多い。本当に嫌いなのは、そういった人間を見て分不相応にも羨望し、しかも絶対にそういった人間になることができない自分。それをひっくるめて理不尽な怨みのような感情を彼らにぶつけてしまう自分だ。

思えば、私の人生は挫折と無縁なんかじゃなかった。運動が得意でなくスイミングスクールに通うまで25メートルは泳げなかったし、中学入試は当然のごとく都立に落ちて、受けるつもりがなかった滑り止めに入学した。物理オリンピックはまったく問題に歯が立たず敗退したし、JMOは1点の差で本戦を逃した。「かつて天才だった俺達へ 神童だったあなたへ」と言うが、あいにくと自分が神童だと思いあがる機会は与えられなかった。それでも周囲の人間よりいくらか得意であった勉強を頼りに、この東京大学までたどり着いた。

受験生の気持ちをそぐようだが、このような平凡な人間が東京大学に入ったところで、その「勉強」を頼みにすることはできない。自分がそうして味わってきた挫折を屁とも思っていない(少なくとも、こちらからはそう見える)人間たちが、ちょうどよく「JMO金」だとか「物理オリンピック入賞」だとかいう実績を掲げ、多くの凡人を尻目に、キラキラした目で勉強を続けている。自分が2年になってようやくやることを、1年のうちからすでに終わらせている人間などザラだ。東京大学とはもとよりそういう場であるべきなんだろうと思う。日本最高峰の知性を養成する場なのだから。足りなかったのはそうした日本最高峰の知性を前に絶望しない自分の覚悟に他ならなかった。自分が欲しくても手に入れられなかったものを、自分が知りたくても知れなかったことを、当然のように彼らは持っている。自分がそれを知れる環境にいたことがどれほどありがたいかも、何も分かっちゃいない。いや、彼らはそんなものを分かるべきではないんだろう。そんな些事に左右されず、愚直に真理を探究すべきなんだろう。だからこんなことに悩むのは自分のような、何の取り柄もない凡人だけでいいんだろう。だからここにこんな理不尽な恨み言を押し込んで、彼らの学びを妨げるどす黒いコンプレックスをひた隠しにしようとしている。「天才」のレールからドロップアウトした人間は、畢竟そうして生きるしかないのかもしれない。

某氏の立派なnoteを見て、いい文だなあと思うとともに自らのコンプレックスが湧き出してきたので、ここに供養します。全てのクソデカコンプレックスに悩む東大生に、少しでも幸あれと願って(書いた内容はただの傷の舐め合いだが)。